ひろさちや著
「心がやすらぐ仏教の教え」PHP文庫、95年11月。
近代化で、古来の農村型共同体が壊れたので、
現代の日本人は自分以外に頼るものが無く、頑張る
ことを信条にするけれど、著者は頑張る思想を批判する。
佛を頼りにして、物事を仏に任せ、頑張るのを止めよ、と。
Socratesの汝自身を知れ、の思想と
釈尊の思想とは共通すると著者は述べる。
現代社会では人格改造(洗脳とも呼ばれる)をする
いんちき宗教がはびこるけれど、いんちき宗教の魔の手
をはねのけるためにも、自己自身を発見するべきだ、と。
著者はさらに、いんちき宗教ほど極端に行かずとも、
現代の一般世間が、人びとを人格改造して、
人びとに無理な競争をやらせることを批判する。
その二。
著者は、釈尊の遺言とされる「自燈明」の言葉を、
自己自身の確立、の意味に解釈する。
仏教は、創造神を設定することは無い。その点では
実存主義である。しかし著者は、近代西洋の実存主義を、
humanismの過剰だと批判する。
近代実存主義者は、誰にも頼らずに、徹底した自己中を
目指したけれど、それはうまく行かず、と。
仏教は、創造主思想と、humanismとの中道の様である。
実存主義では自己の暴走に歯止めをかけることは困難である。
著者は、自己にたがをはめつつ、
自己を発見するための仕掛けを用意する。
全ては仏からの借り物だする説。肉体も財産も、
我が子や家族も、そして自我すらも、全てが借り物だ、と。
その三。
近代思想では、自己の所有物への徹底した自由や支配が追求された。
自分の持ち物に対しては、何をしても良い、勝手だ、とされた。
しかし所有と利用とを分ける思想では、
利用者(物資を借りて、預り物として使用する人)は、
所有者の意を忖度して使用せねばならず、制約を受ける。
著者は、格差社会は神の意志だとの説を紹介する。
大事業のために、特定の者に財産を預けた、と。
その四。
著者は、子は国家の所有物だとする古代Sparta国の思想を批判。
しかし子を親の所有物とする現代日本の思想は、
Spartaの思想よりも遥かにひどいものだとする。
現代日本人は、子は親の所有物だとしながら、子への
教育権を放棄して、教育を学校や塾等、他人に丸投げする。
近代人は、人為の教育を過大評価して、各人の生れつきの
差異は神の意志だとした古代宗教思想を否定した。
それのみならず、生れつきの差異を、教育や努力に
より容易に克服することが出来るものと見做した。
しかし、教育ではどうにもならぬ個性が存在すると
やはり見るべきだ。
▼親は子が、その個性に応じて幸福になる様に配慮せねばならず。
小乗仏教徒は、自己を無にして仏陀に絶対帰依することをせず、
自己と仏陀とを対等にする。
小乗仏教は各人の境遇を説明するのに、前世の業の概念を使用
することを、著者は批判。
著者によると、大乗仏教の絶対者たる宇宙仏は、
あらゆる衆生(生きとし生けるもの)を救済する。
小乗仏教は宇宙仏を無視して、ひたすら釈尊を尊敬する、
と著者は批判する。
著者流の大乗仏教では、釈尊は、絶対者の宇宙仏と、衆生とを媒介
する権現だとされる。
著者は、小乗仏教を批判するとともに、日本人が好む、ご利益信仰
を批判する。ご利益信仰は、神仏を見下し、冒涜することだ、と。
本当の信ずることは、ご利益のある無しに関係無く、
神仏を信ずること。
▲ご利益思想は、安易に損得の物差しを振回すこと、
それを止めよ、と著者は説く。
全てを有難く、不思議なことと見よ、と。
不思議の思想は無知の知に通ずる。
ただしSocratesの真似をして、同時代の所謂知者の仮面を
問答法により剥ぐことをする必要は無い。
仏教徒は問答術の代りに念仏の方法を使用すれば良い。
大乗仏教では、救済は既に保証されたもの。
祈願や救助信号としての念仏は不要。念仏は感謝の表明。
それのみならず、自己が救済された存在であることの自覚。
大乗仏教徒は、仏に帰依し、仏にすべてを任せて、
仏の他力による救済を信じて無我にならねばならず。