ひろさちや著「「まんだら」のこころ」新潮文庫、98年6月。
学校を辞めるのが良いか、会社を辞めるのが良いか、
そんなことを他人に相談しても仕方が無い、
賽ころ振りで決めろ、と著者は語る。
この意見は、密教で在家信者が入門する際の儀式、
投華得仏を応用したものであるらしい。
入門者はどの仏と関係を結ぶのかを決めるために、いろいろ
な佛たちが描かれた曼荼羅の前で目隠しをして華を投げる。
華が着地したところの仏に決定する。
著者は、慾望と渇愛とを区別し、資本主義で追求される
渇愛を批判する。
著者は、資本主義の持続不可能性を批判する。しかし著者は
資本主義を代替するものが何であるかを明確に示すことは無い。
曖昧な形で、密教を土台にした「まんだら仏教」を提示する。
著者は、物差しを捨てよ、自分と他人とを比較するな、と説く。
著者は自己愛が当然であると認めつつもegoism
を避けて他人を尊重せよと説く。
著者によると「まんだら精神」は「一切衆生悉有仏性」である。
あらゆる人には仏性がある。だからあらゆる人は拝む対象になる。
人のみならず、あらゆる生き物に仏性がある。「ゴキブリ」の
様な害虫を殺す際にも、拝みながら殺すべきである、と著者は説く。
著者は精進料理や菜食主義は詰らぬ差別思想であり、
欺瞞だと見るらしい。
著者は、世俗政界とも来世とも別の異次元世界として
「まんだら世界」を想定する。
巡礼者には、四国は「お四国」なる「まんだら世界」である。
それ以外にも、あらゆるものを仏性保持者として拝む礼拝行により、
人は自分の居る場所を「まんだら世界」にすることが出来る、と著者は説く。
拝むことと、拝みの対象への現実の感情とは別である。
対象が嫌でも、あるいは憎くても、ひたすら拝め、と著者は説く。
▼ひろさちや著「もっと自由に生きるための「禅」入門」
知的生き方文庫、10年2月。
どちらにするか決めかねる時には、自分を甘やかすな、
きつい方、苦しい方を選べ、と説く人が居る。あるいは、
確信の無いことはやるなと説く人も居る。
著者は、どちらでもいいことをどちらかに
決めねばならぬ時は、賽(さいころ)で決めれば良いと説く。
著者は、日本の農耕社会流の努力主義を批判。努力を
全く怠ることは駄目だけど、努力をし過ぎるのも有害。
適度な、良い加減の努力をせよ。自己否定、現実否定の努力や、
他人を意識しての努力、分不相応な努力はするな、と著者は説く。
▼著者によれば、人を、弱くて愚かで不完全な
生き物と見るのが諸宗教の共通認識である。
著者は、現在の日本人は無宗教で、この認識を
持たず、と批判する。
無宗教の故に不寛容や虐めが生ずるのだ、と。
著者は宗教思想家として、常識や道徳などは宗教
に比べて価値が低く、捨てても良いものだと主張する。
そして美学もまた常識の一種であり、取るに足らぬものだとする。
近代の日本は幸福を目標にした。幸福や楽を目標
にして、現実を犠牲にした。
現実を否定し、苦しみながら、苦行をしながら努力
をした。そして経済成長をした。
しかし仏教の基本知識では、人生はそもそも苦だから、
苦行をして、わざわざ苦を増やすことは無い。著者は
幸福を目標にする倒錯を批判し、幸福は努力の前提だとする。
▼著者によれば、幸福を目指して努力することは誤り。
正しくは、幸福だから努力することが出来る。
正しく現実認識をすることが幸福。
正しき現実認識を得ることが煩悩解脱であり悟りである。
著者は、個人主義を前提にした現実肯定を説く。
これは社会主義革命と対極の論理。
ちなみに資本主義は個人主義を前提にした変革の思想。
著者は中道を説く。