中田力著「日本古代史を科学する」PHP新書
記紀の記述で、初代神武帝からしばらく、天皇の
在位期間が異様に長いのは、記紀の編者による
水増しと、著者は見る。
神武帝から数代は捏造された人物、との説を否定。
最高の知識人たる記紀編者が、人物捏造なんかする
筈が無い、と。
記紀編者がいんちきしたにしても、期間水増しだけ。
神武帝以来、記紀に記録された天皇が全て実在した
と見るのが当然だとのこと。
人物を捏造して置いて、さらに異様に長い在位期間
を設定したとする、戦後の通説は滅茶苦茶。
人物捏造するなら、在位期間を標準のものにするの
が筋か。
で、著者は、二十九代以前の天皇の在位期間が水増し
されたと認定。
三十代以降の歴代天皇の在位期間の時代ごとの変化を
関数化し、二十九代以前の天皇在位期間を推定、神武
帝は三世紀後半の人物だとする。
続き。
最新の衛星写真や「宇宙考古学」で邪馬台国への経路を再現。
九州への上陸点「末蘆国」は唐津。
そこから陸路で南東方面へ、伊都国、奴国。
この奴国は、漢帝国から金印を授けられた、博多の奴国とは別物。
不弥国、今の佐賀市付近。そこから南に水行
二十日で投馬国、今の熊本市付近。
そこから南に水行十日。当時は海水面が今より
5Mほど高く、今の宇土半島は島だと想定され
る。今の八代市付近で上陸。
そこから陸路。南にしばらく進み、そして九州
を東に横断、宮崎日向に到着。そこが邪馬台国だ。
邪馬台国九州説を採る論者の多くは北九州説だけど、
南九州とした方が、神武東征との整合性の点で好都合。
邪馬台国の南、都城を中心とする勢力が狗奴国。
邪馬台国と敵対。
▼古田武彦著「邪馬台国はなかった」角川文庫、七十七年十月。
過去の研究者たちが、邪馬壹(壱)国を邪馬臺(台)国と
改訂、改竄するなど、先入見や勝手な決めつけで「魏志倭人伝」
本文改訂をすることを厳しく批判。
勝手な改訂は、大陸人や古代人への蔑視(近代以降は西洋崇拝
の裏返しでもある)の反映だとする。
本来親鸞研究家の著者は、本文批判の方法を古代史や「魏志
倭人伝」に応用。
著者は綿密で徹底した用例研究で、過去の研究者による本文
改訂、語句改竄の不当さを示す。「邪馬台国」を主張するの
は、近世以来の大和至上主義者(ヤマトイスト)である。
尤も現代の論では、邪馬台を「ヤマト」と読まずに「ヤマタイ」
とすることが多いけど。
「台」は本来、天子の宮殿を意味する文字で、用字法に敏感な
大陸人が、そんな重要な字を、非中華の野蛮人の国の表記に
使用する筈が無いとのこと。
それでも「邪馬壱国」は、魏志のそれなりの評価の反映である
らしい。この国は朝貢熱心で、二心無き忠誠心を示したと評価
されたらしい。
「邪馬台国はなかった」その二。
卑弥呼の女王国は、魏が半島の反抗勢力の公孫氏に対して
攻略作戦を仕掛けた景初二年、わざわざ朝貢をした。
魏は大いに感謝の意を表した。
現代の日本史学者が戦闘中の朝貢などあり得ず、と決めつけ
て、景初二年を三年に改竄することを著者は批判。
「邪馬壱国」が隣国から水行十日、陸行一月のところにある、
とは今迄の学者には理解困難で、いろいろな改竄がなされたり、
いろいろな珍論が提出されたりした。
著者は「水行十日、陸行一月」は、出発地の帯方郡から
「邪馬壱国」への旅程の合計日数だとする。
著者の推定では邪馬壱国は現在の福岡市のおよそ西半分に相当する。
「壹」は「倭」の古音とも対応するので、邪馬壹国は邪馬倭国
でもある。
「魏志」が倭伝、倭国伝とせずに倭人伝としたのは、当時
の倭が、朝鮮半島南部と九州北部の両方にまたがり、明確
な国家統合の域に達せず、緩やかな統合状態に置かれたこと
の反映であるらしい。
筆者はこの本以降、反日新聞社に担がれ、九州王朝説、日御子
否定など、どんどん偏向した様だけど、この本の段階では
それなりに楽しめる。